新規投稿者 阿座上洋吉
投稿日 3/12(日) 10:26:41
返信も含め全削除
1.日本的経営の原点と集団主義の精神
高校生の選抜野球大会で、またもや不祥事による選抜野球大会出場辞退が起きてしまった。不祥事を起こした生徒は大会出場の当事者ではないが、学校として大会出場を辞退する方法を採用した。この風習は古くから日本の文化として伝承されてきたものであり、学校側の処置は集団教育の立場を強調する形となった。その結果、不祥事に関係のない善良な生徒を制裁することになり、国民の間でも議論が二つに分かれていた。個人主義の諸外国では納得できない制裁方法であるという意見が多く、日本においても近年、可哀相であり少し理屈が合わないという意見が多くなってきた。この制裁方法は戦時中の軍隊が、組織の統括を強めるために用いた集団管理手法であり、集団全体に恐怖感を与え緊張させる手法であり、集団をコントロールし易くする手法として用いられたもので、教育論として取り上げられたものではない。近年のビジネス界は個人主義をベースにした能力主義に移行しており、集団責任時代から個人責任時代になり、個々人の自己責任時代に移行してきたのである。
2.喧嘩両成敗も集団主義の論理
戦後までの日本は、貧乏人の子沢山といって親子は一対集団の関係であり、一日中兄弟喧嘩が耐えない時代であった。当時の親は忙しく、沢山の子供との対話なんかする暇もないため、兄弟喧嘩をしている事実を捉え喧嘩両成敗という制裁方法が一般化していた。傍にいた子供にも何故止めなかったかと叱られる集団管理手法であった。本来ならば、兄弟喧嘩の内容を双方から聞いて、良し悪しを判定すべきであるが、当時の親は子供集団をコントロール手法としての集団訓練が喧嘩両成敗であった。このように当時の家庭の教育も学校と同様に集団管理手法を用いており、日本の教育文化は集団管理手法が主流であったのである。
3.集団主義崩壊の潮流と新しい経営理念
企業内で不祥事が起きた場合、全く無関係な善良な社員まで制裁するだろうか。その不祥事に社会的責任がある場合は、当然、全社員に責任が負わされるが、これは人為的に善良な社員に対する制裁とは根本的に相違する。つまり、社会においては高校野球のような集団主義の制裁は通用しないのである。これは悪用される場合の方が恐ろしいかもしれない。近年のビジネス界は、集団主義のピラミット型人事組織を解体し、自己責任型のシステムが重視され、情報がスピーディに伝わる仕組が必要になってきた。これはIT化の影響もあって、ネットワーク型の組織に変更し、情報を共有することが重用になってきたからである。このような時代に学校も家庭も集団管理手法を前提とした教育では、時代に合わない部分が目立つようになってきた。しかし新しい時代に即した個人主義化の教育理念が未だに確立しておらず、教育界も混乱しているのが現状である。一方で現代社会に通用する人材を養成する必要に迫られているのである。
|