<212>いじめの場面がなぜ娯楽番組になるか
新規投稿者 阿座上洋吉  投稿日 07/4/1(日) 18:48:49  返信も含め全削除

1.お笑い番組の内容はいじめの言動が多い
 寄席や舞台、テレビ等のお笑い番組や漫才、落語等の内容は、いじめ内容として演ずるものが多く、ドジ役を設定し、ドジ役をいじめる内容のものが非常に多い。本来深刻ないじめ問題が、お笑い番組に何故これほど登場するのであろうか不思議である。しかもいじめの場面は、観客が普段体験しているいじめの苦悩の場面ばかりである。これを第三者として鑑賞すれば、何故可笑しく楽しいものになるのであろうか。いじめ役はドジ役を徹底的にいじめるし、ドジ役は徹底的にいじめられる。この徹底したいじめの場面を見て観客は大笑いをする。しかも、漫才や落語等のいじめの場面は、我々の通常の日常生活に起きるいじめの場面を、大げさに表現するだけの話である。確かにいじめの場面を滑稽に加工はしてはいるが、いじめられる場面が滑稽で笑いを誘うこと自体が不思議である。このようにいじめの場面は、日常の仕事や生活の中に溶け込んでいるものばかりである。

2.いじめ場面を笑いに変身させる技
 漫才は、いじめを受けるドジ役のボケと、いじめ側の突っ込みに分かれて演じられるが、ドジ役は、役として演じているのであるから、観客が本当はドジではないことを知っている。そのため客は安心して気楽にドジの行為を楽しむことができるのであろう。このいじめ行為が可笑しさを誘うのは、ボケの行為で、突っ込み役がいくらいじめても「糠に釘」の感じで、いじめの効き目がない。結果的に突っ込み役が馬鹿に見えて可笑しいのであろう。いじめを可笑しさに変身させるためにはいくつかの仕掛けがあるが、いじめを受けるドジ役の立場が、あまりにもドジであるため、いじめられても仕方がないほどの役柄に設定してあり、自分はあれほどのドジではないと、観客は自分の優位性を感ずるようにも設定してあり、ドジ加減が限度を越えた行為を真面目に演ずることがおかしいのである。つまりいじめが当然起きるような環境に設定してあるため、客は納得して楽しむのである。ここにDNAに組み込まれた競争心の優位性をくすぐる原理が応用されている。

3.現実の社会現象と遊離してきた教育環境
 落語や漫才がいじめを題材にして客を楽しませているのに対して、幼稚園や小学校における学芸会では、いじめを題材とするものが消えてしまった。また近年は、役柄も簡単に決められないようである。親や子供自身も、王様やお姫様の役はよいが、それ以外の役を嫌うからである。仮に蛙や犬の役でも付け様ものなら、親が怒鳴り込んでくる。役で差別化をするなという意味である。これでは悪に対する正義の味方の教育ができないではないか。お芝居や落語、漫才では、役柄としてのいじめを通して正義の重要性を理解させる効果があるが、学芸会では役柄と現実のいじめが直結してしまうようで、自分の子供には経験させたくないのであろう。しかし、現実の社会では、仕事の内容や立場を自分で勝手に決めることはできない仕組みが現実の社会である。それを承知で幼稚園や小学校では役柄に身勝手な注文をつける時代になってしまった。悲しいことであるが、子供の教育環境が現実の社会と遊離してきたことを表している。この現象は現実のいじめ行為からの逃避現象である。

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