<216>ガス抜き効果のあるスポーツは重要
新規投稿者 阿座上洋吉  投稿日 07/5/25(金) 07:30:08  返信も含め全削除

1.喧嘩にルールを設けるとスポーツ化する
 現代子供社会における紛争が、同格の立場で起きる状態が少なくなった。それは紛争の当初からグループとしての勢力や立場等に大きな落差がある場合が多く、この落差が大きいことでいじめ環境が出来上がるからである。同格の立場で行われる紛争を喧嘩と言い、対等の立場の喧嘩であれば多少はガス抜きの効果もあるが、勢力等の落差の中で行われる喧嘩であれば、当初から弱者が決まってしまいガスが充満してしまう。そこで喧嘩に適切なルールを設けて審判員を置いて平等化すれば、喧嘩をスポーツ化させることができるのである。しかし注意すべきことは、小学校の運動会のように順位がいじめを誘発するとの心配のあまり、足の速さを調査しておき、速さ別グループに分けて走らせているが、これでは差別化であり先生が深刻ないじめ環境を構築している結果となる。一番足の遅いグループで1等になった子供が、嬉しいわけがなく憮然とした顔で、「嬉しくなんかない」という。初めから「ビリグループ」とレッテルを貼られた落ちこぼれの判定を受けている。これは差別化であり、ガス抜きにはなる分けがないからである。ここにスポーツとしてガス抜きの機能を認識する必要がある。

2.オリンピックもガス抜きとして提案されたもの
 人類のDNAの競争遺伝子が集団化して作用すると大集団の喧嘩に発展する。国という集団の単位で喧嘩することが戦争であり、これを防ぐ方法として考案されたものがオリンピックである。国単位の争いのガス抜きとして重要な意味を持っている。DNAの競争遺伝子を野放しにしておくと、競争遺伝子が動物本能としての闘争心が増殖すれば、弱肉強食の本能的行動がむき出しになる。特に集団を構成する個々人の競争遺伝子が、同じ方向を向いて結束してしまうと恐ろしい集団パワーが発生する。これが戦争の恐ろしさである。戦争の基本的原理は、DNAの競争遺伝子が深層のところで集団化する恐ろしい現象である。人間の個人的な喧嘩や集団の喧嘩(戦争)の双方とも、永遠に地球上から消えることはないであろう。国の内部で発生する戦国時代や内戦状態、国同士の戦争等、歴史が示すとおりである。DNAの競争遺伝子が生物からなくならない限り、争いは続くのである。したがってガス抜きの研究が益々重要となるのである。

3.なぜ、スポーツがガス抜きになるか
 人間の日常生活自体に争いの種があり、争いの要因が次から次へと連続的に発生する。日常生活自体にストレスを発生する要因が潜んでいる。このストレスの蓄積が一定限度を越えると喧嘩になるし、集団化すれば戦争にもなるのである。そこで争いがストレスを蓄積する要因であれば、逆に争いを利用してストレスを解消することが良いのである。争いにルールを設けて審判を置くスポーツが、なぜストレス解消になるかと言えば、負ければルールーと審判の判定によって終了する。つまり、スポーツは試合が終了する時点で、リセットボタンを押すことができる。そのため敗者は次の機会に再挑戦できるため、負けた時点でストレスがあっても軽症で済み、敗者復活戦や再挑戦があるため、ダメージが軽く済むのである。喧嘩であれば負けた場合は憎しみが残るが、スポーツに負けた場合は悔しさが残るだけである。憎しみと悔しさは大きな違いである。

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