新規投稿者 阿座上洋吉
投稿日 07/11/4(日) 20:01:10
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1.社会は競争心の強い人を求めている
子供が小さい時は、親や先生は子供の向上心や負けず嫌いに関心が高く、社会に出れば、やる気や根性が問題にされ、結果的に競争心や闘争心の強い者が有利に作用することが多い。そのため人間はあらゆる場面で勝つように仕向けられる。この競争原理が人類にとって幸せであるか不幸であるかを別にして、意識しないでいても競争に巻き込まれてしまう。これが遺伝子に組み込まれた競争心の因子によるものである。競争の対象が人間以外のものであれば、あまり他人に迷惑を掛けることはないが、人間の行動には競争が付いて回るものである。例えば険しい山登りに挑戦する人に、「どうして山に挑戦するのですか」と聞けば、「そこに山があるからだ」と応える。山登りに挑戦という言葉には、「挑戦」という戦い挑むと書くのであり、これも競争心が根源となっている。これは自分との戦いとなるから、いじめのように他人に迷惑を掛けることがなく、大いに結構なことであるが、実際には戦いの対象が人間の場合が多く、人間社会ではいじめが常に付きまとうものである。
2.個人主義時代に入り、いじめの防御ができにくい仕組み
集団主義の時代には、仲間によって外敵に立ち向かうという文化であり、集団内部は必然的に仲間による協力体制が出来上がるのである。各種の集団が結成される所以は、身の危険を感じた時に外敵から身を守るために組織されるものであり、集団は仲間による協力体制を前提として結成されるものである。然るに近年の超個人主義時代に入ると、集団に所属すること自体が苦手な若者が大量に出現してきた。繰り返しになるが一人っ子育ちが一般化し、子供や若者が集団化する文化が無くなってしまった。集団主義の時代は、仲間で防御する仕組みであるから、原則として個人攻撃は少なかったし、当然のように集団内部は仲間意識が強くなるため、仲間同士の争いは少なかったのである。然るに近年の超個人主義時代に入ると、仲間であった集団の内部で発生するものが多く、いじめやリンチが集団内部で起きる現象となってしまったのである。
3.集団の内外で多発するいじめの形態
超個人主義社会の到来で、集団化して外敵に対応する防御する仕組みが消滅してしまった。その結果、超個人主義時代は、全ての集団において協調性が低下し、家庭や学校、職場、組合、協会等の内部の協調性が弱くなった。その反面、個人的な主張が強くなり、益々内部の結束力を低下させる結果となっている。集団の結束力が弱くなったため、集団同士の抗争は少なくなったのである。集団主義時代に多発した学校別グループ間の抗争が極めて少なくなった。これに対して近年の個人主義時代は、内部の個人間の喧嘩やいじめが多くなったことが近年の特色である。競争心としてのエネルギーの発現が、集団主義時代から超個人主義時代に違いが出ることは当然のことであるが、この研究の遅れが問題である。
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