新規投稿者 阿座上洋吉
投稿日 08/1/20(日) 18:22:16
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1.生命体生き残りの原理
人間の闘争心は、生命体の生き残りのための本能としてDNAに刻まれたものである。この闘争心は具現する時点の環境によって各種の形態となって現れる。競合によって自分が不利になったときは、本能的に不利を回避するための行動をとる。人間以外の動物であれば、自分が相手より強いと思えば攻撃するし、弱いと思えば逃げてしまう。その行動は生命維持のための行動で単純明快な行動である。また、単独行動では弱いと思えば蟻や蜂の小動物のように、集団行動で相手を撃退し生命の保全行動をとる。基本的には人間も同じであり、相手が弱ければ攻撃するし、強ければ逃げる場合もある。また集団化して競合相手に立ち向かう場合もあり、労働組合活動はこれに当たる。経済活動においても単独で戦うには弱い立場の場合は、協同組合や企業組合等の共同事業で対抗する。競合するどのような場面を見ても生命体の行動は、生き残るために闘争となって現れるのである。
2.競争心・闘争心の悪さの側面
生命体に仕組まれた闘争心は、本来、生命体の生命維持装置としてDNAに組み込まれたものが根源となっており、この生命維持装置の機能が敏感過ぎると悪さをする場合がある。負けず嫌いの人は、この生命維持装置の機能が敏感に作用する人であり、異常反応する場合があり、勉強や仕事、スポーツ等の競合する場面で、適切に対応できれば問題はないが、過度に作用する場合は不正や不公平な行動になって現れる。人間以外の生物であれば本能的な行動であるから、一定の法則や原理が作用する行動であが、人間の場合は、脳が発達したため小細工する場合がある。この小細工を防ぐためスポーツではルールや審判を置くのであるが、闘争心が異常に強く作用する人にとっては、無意識に不公正、不公平の行為に及ぶ場合があり、これを防ぐことができない場合がある。人間は他の動物より異常に脳を発達させたため、脳によって競争心や闘争心が増幅され、異常な競走環境が出来上がる場合があるからである。
3.始末が悪い異常な闘争心
脳で増幅された異常な闘争心は、平和な環境を壊す場合がある。近年過激な行動をとるオーストラリアの捕鯨阻止事件は、その行動自体が過激で戦闘的である。自然保護という大義名分によって鯨を保護すべきと主張する。これに対して日本人は、家畜を散々殺しておいて鯨はいかんとは理由にならないと反論する。これを人間の深層部にある闘争心の視点でみれば、人間の本性として持っている闘争心のエネルギーが蓄積され、その捌け口が大義名分として自然保護に名を変えた運動と見入ることもできる。仮に日本が調査捕鯨を中止すれば、あの戦闘的な行為のエネルギーは、別な戦闘行為に向かう可能性すらあるのである。あの派手な戦闘的行為を民衆に訴えて、自分の存在感を主張し、多額な寄付を集めている。これは中東圏で多発しているテロ事件に非常に類似した側面を持っており、平和になりそうになるとテロ事件を画策し、常に一定程度の戦闘状態を確保し、自分達の戦力の重要性を主張する。完全な平和状態になれば、闘争心を解消する場面がなくなるし、自分たちの存在感が民衆から失ってしますからである。悲しいことであるが人間の歴史は戦争の史実ばかりではないか。
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