反日感情を辿ると2の1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 05/1/10(月) 07:57:33  返信も含め全削除
毛沢東、周恩来時代の蜜月時代は
大連時代の中国人との交際から
大連水産学院の日本語教師の時代に、ある中国人の訪問を受けた。年齢は70歳、日本語教師として、またロシア語教師として、大連市の大学で長年勤め上げた人である。
彼は私の2年余りの大連生活に、なにくれとなく身辺雑事に気を使ってくれ、彼が若い時から現在にいたるまでの、対日感情の移り変わりも語ってくれた。
私との交際の目的は、日本人の金持ち(しがない退職老人であるが、日本人はみな金持ちと思われている)と手を組んで貿易をすることであったと気が付いたが、それにしても2年間お互いに訪問し、ご馳走になったり、奥さんともども北京焼鴨店へ出入りしてご馳走したりの生活であった。以下彼から聞いた話も織り交ぜながら、新中国建設以来、中国人の反日感情の推移を辿ってみたい。
 日中戦争時代、彼ら日本語教師の処遇は、日本が英語を敵性語としていたように、日本語を教えることも、使うことも禁止された。当時満州を支配していた日本軍は、日本語を指導していたが、日本敗戦と同時に、日本語を履修していた中国人のほとんどは、もう学習しなくなってしまった。「もうすっかり日本語は忘れたよ」というお年寄りにも出あった。

「日中共同声明」(72年)や平和友好条約(78年)を巡る外交交渉時代は、中国はソ連との対決姿勢が鮮明であり、日本の「北方領土返還運動」にも好意的に支持していた。
当時の中国の指導者は日本人を「日本人民」の呼称でよび、アメリカの帝国主義と日本の反動に、抵抗する国民という眼で見ていたのが一般的であった。
 だから中国との戦いで日本軍が南京をはじめとし、中国のあちこちに酸鼻を極める所業があったことも、「もう過去のことだから」といって、南京の記念館も見せてくれなかったという人もいる。

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