新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 05/1/14(金) 05:25:54
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ケ小平時代の日本との交流の密度の濃さ
日本の終戦後の映像、歌謡の文化が、続々と中国に入っていったのは、ケ小平時代である。まさに改革開放の政策は、中国の民族歌舞団のレパートリーにも「夕鶴」や「阿波踊り」なども取り入れられ、日本の歌や踊り、映像の数々に熱狂的に迎えいれられた、なかでも「おしん」はその白眉ともいえる。
1982年、歴史教科書の記述で「侵略」から「進出」に書き換えたときから、第一次教科書問題が噴出した。この時から歴史問題が日中の外交問題として浮上して、その後あいつぐ日本政府の閣僚の戦争責任を巡る問題発言,首相の靖国神社参拝のことが,問題視されたが、日中間の重大案件とはならなかった。
1989年の天安門事件で、欧米の熾烈な中国批判にたいして、隣国のよしみからか、日本は欧米と一線を画した。それがよりいっそう日本を好意的にみるようになった。
92年に天皇・皇后の中国訪問で「日中は本当の友好国になった」とまで言ったのである。
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