新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 06/4/10(月) 10:51:19
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遼寧師範大学の片隅に
大連の遼寧師範学院に、私の同期のKさんが2年間勤めていた。この大学に、日本語の教師として一緒に派遣された奥様は、1年目から直腸癌の徴候が顕れはじめ、2年目には還らぬ人になってしまった。江戸川区にある彼の家に泊まりながら、生前を偲んだのであった。
彼が勤務していた遼寧師範大学の宿舎の片隅に、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の石碑がひっそりと建立されていた。
日本人作家による文学碑文が、建立されていることはまず無い。日本人を顕彰するような碑文、日本の国、日本人に因んだものを顕彰していることは、どこを訪問してもまず見られなかった。
ハルピン、長春を訪れても、日本への恨み節が散見され、ソ連の国、スターリン、レーニンを讃えるような大きな銅像を眺めながら、中国での反日感情の奥深さを感じていたものであった。
「君死にたまふことなかれ」は与謝野晶子が、旅順へ出兵する末弟を詠んだ反戦の詩文として、当時大町桂月をはじめとして轟々たる批判があった。
「ああをとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし 君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしえしや
人を殺して死ねよとて 二四まで育てしや (中略)
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづから出でまさぬ、、、」
各八行五連の長詩である。
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