回想中国26「君死にたまふことなかれ」2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 06/4/18(火) 06:25:48  返信も含め全削除
碑文建立はどうして   
どうしてこの与謝野晶子の碑文が建立されたのか。当時在職していたKさんにメールを送り尋ねてみた。この詩文が旅順に建てられていたのならまだ理解できる。
この大連の遼寧師範大学の人目に付かぬ外国人宿舎の片隅に、ひっそりと建てられていたのである。
 彼の言うのには、この大学には、張 暁寧教授という昌子の研究者がおり、彼の著書には「日本近代文学の鬼才―与謝野晶子論」という本が二〇〇三年出版されたそうである。この教授が中心になって建立したのではないかと思われる。
晶子がこの詩を発表した明治37年9月は日露戦争の最中であった。
この詩には「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」という副題がついている。
この詩が「明星」に発表された翌月の10月号の「太陽」に、大町桂月が過激な口調で、危険なる思想と晶子を批判したという。
上に書いてある詩文の中の「すめらみことは戦ひに おほみずから出でまさぬ」
のことば、(天皇は自分から戦いに出ては来ない)の詩句に、桂月の逆鱗に触れたのではないかと思われる。
 早速晶子は反論した。その当時、この二人のやりとりは論争という高尚なものではなく、罵詈雑言の限りを尽くしたと書かれているのをみて、明治のこの時代は、まだまだ自由にモノを言える時代であったのだなーという感慨を深くしている。またKさんのメールによると、平成12年に堺市の市民芸術祭に「海を渡った昌子詩碑」の催しが盛大に開かれ、学生たちも参加し、「君死にたまふことなかれ」を合唱したそうである。

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