新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 06/8/29(火) 17:59:47
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戦艦大和の日常生活(食糧事情)
開戦の昭和16年12月8日から、ミッドウエィーへの進攻までの、7ー8ヶ月くらいまでが、日本軍の華々しい戦果が報告されたが、それ以降は連戦連敗、圧倒的な物量の差、近代兵器の違いなど、ガダルカナルなどは惨憺たる状況であった。
当然国民は今の生活では考えられないほどの忍従を強いられた。昭和18年頃から食糧事情が悪くなったことがハッキリと記憶にある。
来る日も来る日もイモ、カボチャ、澱粉かすのような団子、米など3ヶ月も食していなかった。国民総動員法によって、戦争遂行のためにどれほど国民が窮乏をきわめ忍従を強いられたか。
「お国のためです」「ほしがりません勝つまでは」「贅沢は敵」の言葉も、幼い子どもの心にしっかりと植え付けられていた。
しかし「大和」は違っていた。反町隆史が責任者を務めていた炊事班、毎日3000人もの三食を用意するその映像は、まるで戦場であった。もうもうと上がる湯気、室内はいつも40度以上の熱気、ここで勤務する兵士は甲板勤務の水兵をいつも羨んでいたという。
昔から陸軍と海軍の反目は、こんな食糧事情にも現れていた。陸軍は戦争も末期になると、食料は全て現地調達、トカゲも鼠も昆虫類もすべて食料となっていた。中国の小学校の歴史教科書を調べてみると、日本陸軍の中国における、食料の略奪は写真入りで掲載されている。反日教育の始まった頃の教科書である。
陸軍の兵隊が大和に乗船して、その食糧事情の豊かさに目を見張ったという。
当時の日本の国民も、陸軍の兵士でも別天地のような大和の食糧事情があった。
「戦艦大和の時代」の本にもその頃の生活の様子が克明に記されている。
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