満州今昔物語 2の1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 07/6/27(水) 17:01:41  返信も含め全削除

満州と中国東北地方
日本人が満州の地に、本格的な支配が始まったのは、明治38年、ポーツマス条約の調印により、日露戦争が終結した後であった。
満州と言う言葉は、我々の世代の日本人になじみ深いが、もう20年もしたら日本人のどれほどの人が、この言葉を知っているであろう。かつて満州に住んだことのある人々も、この世から消え失せ、かつて日本の関東軍がこの地で暴虐の限りを繰り返していたことも、日本人からも忘れ去られてしまうであろう。
長春を訪問したときに、建物のあちこちに「偽満州」を冠につけた看板が多かった。ああこの長春(当時は新京)に溥儀が幽閉されていたのだ。この建物が溥儀の蟄居していた建物か、その中を巡りながら、傀儡皇帝の溥儀と精神を病んで隔離されていた正妻と、言葉を交わすこともなく終わった歳月、満州国皇帝、ラストエンペラーとして、豪華絢爛な幼児期、少年期、成人してからも幽閉された時代、そして日本の敗戦と共に、虜囚としての、ソ連に、撫順に、10年間を過ごした時代、そして東京裁判ではことごとく日本に不利な証言をした溥儀であった。
ハルピンの街路を歩く中国人の姿、リヤカーに重い荷をひき襤褸をまとうのは、もしや日本人の末裔ではあるまいか。生き残った残留孤児ではあるまいか。それにしてもこのハルピンでは、日本人を排除するような言葉が何故多いのであろう。ロシアを讃え、ロシアの人名にちなんだ街、街路が多いのに、どうしてこうも日本人は、日本の国は排撃されているのであろう。博物館を覗いても日本人であることを隠さなければならないような展示物であった。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.