新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 07/7/9(月) 09:31:05
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「若いときの苦労は買ってでもせよ」とよく言われる。成人した時、それが肥やしになるという。しかしそれが度を過ぎると人間はどうなるのか。特に幼いときの口に出来ないような苦労というのは、生涯トラウマとなって残るのではあるまいか。彼は満州から引き上げてきて、もう二度と彼の地を踏みたくない。中国のパック旅行にも行きたくないと語る。
当時日本から満州に移り住んだ日本人には、様々な生活のレベルがあった。満州のような外地には、手当が付いた官僚や公務員は本俸の5割以上の手当が付いたという。ソ連に近くなればなるほど、危険手当の額も増えた。閉塞感ただよう日本からみれば、満州は夢の新天地であったろう。私の所属するサッポロシニアネットの仲間の中にも、その当時父親が満鉄の職員をしていた人たちもいた。内地では想像も出来ないゴージャスな生活であったらしい。
満州に移り住んだ日本人の生活の程度もいろいろであったろう。北満州の鉄道勤務をはじめとする役員の高級官僚、民間の会社員、そして蒙満開拓団として赤い夕日に照らされて、畑に鍬を入れた人たちということになろうか。
五族共和(漢、満、蒙、朝、日)の五民族の協和というけれど、あくまでも日本が支配者であった。あらゆる点で優遇されていた。内地の食糧事情とは比べものにならないような生活を送っていた日本人も多かった。
あの当時 土井晩翠の作詞に次のような歌詞があった。
「ああ、満州の大平野 アジア大陸東より 始まるところ黄海の
ああ10万の英霊の 静かに眠る大陸に のこせし勲をうけつぎて、、、」
独立守備隊の歌である。私の友人のA氏にはこの歌詞の記憶はなかった。いつも口ずさんでいたのは、あの哀愁を帯びた一節
「ここはお国の何百里 離れて遠い満州の 友は野末の石の下」であったという。
この反戦歌とも言うべき歌は、終戦後我々の世代にもよく歌われていた。
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