新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 07/7/12(木) 12:31:19
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満州今昔物語 4
友人A氏の満州時代 2
終戦までの記憶のなかでの、いろいろ思い起こしながら語ってくれた。
まず父親がノモンハンの戦地に赴き、命からがら逃げ帰ってきた。当時の日本の陸軍は日露戦争の名残の明治三八年の38銃を使っていた
近代化したソ連の装備を相手にするような戦備ではなかった。古色蒼然とした日本陸軍の戦備品は敗戦を迎えるまで、このままの状態が続いた。
父親はやがて中支の戦場に応召され、家には母親、長男(友人)、4才年下の弟、8才年下の妹の4人家族が、肩を寄せあうようにして生活したという。官僚でも公務員でもない、1民間の家庭では糊口をしのぐことも難しい日々であったらしい。父親が終戦後、日本へ帰るまで、一家4人の生活は、母と幼い友人の双肩にかかっていた。
チチハルを拠点として、新京やハルピンにも移り住んだという。友人A氏の両親は、普段から中国人のお世話をしてやる事も多く、食料が枯渇したときには、お世話をしてやった中国人が、小麦粉や調味料などを運んでくれた。そのお礼に母親の着物や化粧品が消えていったという。いま風のフリーマッケトに、品物を出しては食料の購入費に当てていたという。
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