満州今昔物語 4の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 07/7/12(木) 12:33:25  返信も含め全削除
1941年12月8日の太平洋戦争開戦の記憶はあまりない。内地から取り寄せた「少年倶楽部」その後に発刊された「少年」を読むのが楽しみであった。幼い記憶にも開戦時の記事には、いつも日本が勝っていた、幼い少年の心を奮い立たせるような記事が満載されていたように思うという。日章旗がはためき「赤い夕日に照らされて」の軍歌の歌詞を口ずさみながら過ごした小学校時代、もちろん日本人だけの学校であったので、中国人や他の異民族との交流はほとんど無かった。慰霊塔の前で器楽演奏のような儀式があったり、奉安殿の前では毎朝お祈りした。

戦時の子どもの遊びは、敵味方の服装をしてチャンバラ、戦ごっこであったという。鉄兜は日本兵、洗面器を被るのは欧米の戦士、いつも鉄兜が勝ち、洗面器が負けていたという。時折関東軍の兵隊が眺めていて満足そうに笑って見ていたという。防空壕へ避難したことも多かった。8月6日、日本に新型爆弾が落ちたらしい。それもいままでにない大型の爆弾であるとの情報が伝わってきた。路上のモノは大変危険であるから一切拾ってはならぬ、と言うお達しもあり。新型爆弾投下のニュースがあってから、当時の満州も急に変わってきた。

 8月12日に引き上げ命令がでた。当時毛沢東率いる八路軍と、蒋介石の国府軍とは戦闘状態にあった。どこで中国の軍隊と遭遇するか分からない。しかし子供心にも、八路軍の軍紀は統制が取れていて、日本人にも無謀な事はしないが、国府軍はやりたい放題であるという認識はあったようである。
出発する前に、母親は襟元に青酸カリの袋を縫いつけた。もし万が一のときはこの襟元の袋を食いちぎり果てるのだ、と教えたという。幼い子どもの心に、その言葉はどのように響いたであろう。一家4人、友人は幼い弟の手を引き、母は2才の赤子背負って、チチハルから松花江までようやく辿り着く。

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