新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 07/7/30(月) 16:02:27
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それからまた元のあばら屋の家での生活が始まった。しかしこれからの生活は敗戦国の国民としての耐乏生活、いつ外敵が押し寄せてはこないか、女一人の母の身をどう守るか、10才の長男の彼の心中は、いつも外敵(主にロシア人)から、どのように家族を守るかという心配ごとが幼い胸を悩ませた。
それから4軒長屋に母と子の4つの家族が、壁に穴を開け、いつでも情報を伝えることが出来るように、住むことにしたという。
乏しくなった食料品の調達のため、母の着物や化粧品のほとんどは食料に変わり、僅かに残った品物は、街頭で行われていたフリーマーケットのような売り場に持参した。満人に売って日銭を稼ぎどうにか生き延びていた。
昭和20年の頃の食料の無い時代は内地でも同様であった。
ソ連人や中国人の略奪が始まった。それまで中国人の田畑からどれほど作物を、家畜を盗んできたかわからない関東軍、一般住民とて同じような行為をしなければならない人もいたであろう。
しかし許せないのはソ連軍、ロシア人である。火事場泥棒のように満州の各地に点在していた工場の施設設備を、そっくりソ連領土に持ち運んだのであった。そして50万人の日本人も捕虜として連れ去った。五味川純平の「人間の条件」や「戦争と人間」の作品に、ソ連軍の行為が詳しく描かれている。あの満州の北には素晴らしい国があると逃亡し、永久凍土の上で野垂れ死にした兵士も多い。
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