新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 07/8/10(金) 09:55:30
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生前60才くらいであろうか、彼は収容されていたハバロスクの収容所を訪れている。彼の収容されていた当時、日本人の収容者が建てた音楽堂もあった。
ロシア人はいう。日本人はどんな状況でも、自分に与えられた仕事は、誠心誠意行う。だからこの建物もこのように堅牢なのです、、、と。
収容所で歌われた歌には「ハバロスク、ハバロスク、ラララ、ハバロスク、河の流れはウスリー江、あの山もこの谷も」後に伊藤久男の歌う「ハバロスク小唄」であった。どんな思いで日本への郷愁をこめて歌っていたのであろう。また吉田正作曲の「異国の丘」もよく歌われていたという。
相沢英之(戦後強制抑留者会長、元国会議員)はいう。私もシベリアに強制収容されていた。ポツダム宣言に違反してソ連は私たち日本人を連行した。
およそ60万人に近い日本人の強制連行。酷寒の地での強制労働のなかで次々と仲間が死んでいった。
毎日石炭掘りのあけくれ、顔は真っ黒になりながら働いた。ハバロスク第16捕虜収容所であった。24時間3交代で働いたが、時には連続12時間という事もあった。手製の食器を作ったり、麻雀パイも作ったりした。しかしいつかは必ず日本へ帰ろうという気持ちがあったので、仲間に「ダワイ、ダワイ(帰国)」と呼びかけていた。
賃金の補償も一切なし。領土問題もあのとおり、遙か遠い昔になってしまった。
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