満州今昔物語 8の1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 07/8/19(日) 10:06:40  返信も含め全削除
ハルピンの街を訪問して
ハルピンの街を訪問したのはもう8年前にもなる。日本の26倍もの面積をもつ中国の旅行は遠いところなら、一度訪問したらもう行くことはない。
中国一美しいと言われる大連の町並みに比べ、ハルピンの町並みは何となく汚れていた印象があった。
 松花江はハルピンの郊外を流れる大河である。毎年酷寒の時期、ハルピン氷まつりが開催され、中国国内はもとより、世界からの観光客が集まってくる。
この松花江を日本人の同行者と小舟に乗って対岸までわたり、施設を見学したことがあった。まさに悠々たる大河である。陸上輸送が未発達な満州では、物資の集散が河川を中心に行われ。また鉄道の拠点を作るのにも最適であった。
1989年、帝政ロシアがハルピンから大連、旅順の鉄道を本格的に敷設しようとしたのがハルピンであった。
 帝政ロシアが首都ペテルブルグを建設して以来、本格的な都市を建設したのは、ここハルピンである。市内にはソ連、ロシアを、ロシア人を讃える通り、建物で埋められ、「スターリン通り」とか、「レーニン広場」の言葉があるので、どこかに日本にちなんだ、満州の礎を作った「日本」と言う名前がないかと探したが、全く無駄であった。
日本、日本人を讃えるような建物も、銅像もなかった。まさにこのハルピンに住む人たちには、憎き日本、にっくき日本軍隊であったのであろう。
731部隊の生け贄になった父祖の人たちも多いのであろう。ロシアを讃え、日本を憎む雰囲気で充ち満ちていたように感じた。

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