新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 08/1/27(日) 07:05:25
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日清戦争以後の日本
明治27,8年の日清戦争は19世紀の疲弊した老大国の「清朝」を列強がよってたかって食い物にした。アメリカもイギリス、オランダ、ドイツ、フランス、オーストラリアなどなど、なかでも一番致命的な打撃を与えたのは1840年のアヘン戦争だと思っている。いまなお日本軍隊の中国における
残虐行為は、アメリカの原爆投下、ナチスドイツの600万のユダヤ人ホロコーストと比較されるが、私は清朝に壊滅的な打撃を与えたのは、世界の7つの海を股にかけていたイギリスのアヘン戦争であったと思う。
日清戦争で韓国を併合した日本は、中国におけるソ連軍の進出、旅順から長春そしてシベリア鉄道に至るまでのロシアの鉄道の敷設は、遠からず朝鮮を植民地にした日本にも、きわめて驚異であった。ロシアの領土的野心がいずれ朝鮮にもおよび、日本本国にも及んでくると思った。
1900年に義和団事件が起こり、1904年(明治37年)に、アジア人として初めてヨーロッパの列強の一つであるロシアと戦った。日露戦争である。この日露戦争については、後日の「旅順篇」でこの目で見たことを確かめてきたことなども含めて、詳細を書きあらためたい。
甚大な被害を被ったが日露戦争に勝利を収めた日本は、世界で一等国となり、アジアの小国、小日本と小馬鹿にされていた日本は、勇躍世界の檜舞台に躍り出ることになる。
日清戦争では清国の国家予算の3倍もの賠償金を得て、富国強兵、殖産興業の礎をつくった日本であったが、日露戦争の戦果としてきわめて僅かであったから、時の外相、小村寿太郎の自宅に火がつけられるようなことが相次いだ。それでも南樺太の割譲、満州の南満州鉄道の租借権の譲渡など、満州進出への確かな足がかりを得たのであった。
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