新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 08/6/10(火) 07:42:20
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三内丸山の大発見
1992年(平成4)に、青森市の南西にある縄文時代の前期の、約5ヘクタールの遺跡の発掘が始まった。遺跡の範囲は、約35haもあり、住居跡600棟、祭祀を行ったような建築物、墓群、土器、石器木製品など数万点が発見された。
数万点の発掘は国内屈指の大発見として、当時はずいぶんマスコミを賑わせていた。約5500年前から4000年前頃までの間、約1500年間の遺跡である。
オホーツク文化人(モヨロ人)は1500年前であるから、それより4000年も前に遡る。
今から14,5年前「三内丸山、三内丸山」とマスコミで報じられていたのは、従来までの縄文文化を大きく塗り替える事実が、つぎつぎと発見されたからであった。栽培されていたと思われる栗や豆、ひょうたんなども見つかった。
新潟県の糸魚川のメノウ、北海道の黒曜石なども発見され、当時から広範囲の交易圏を持っていたことも分かった。直径1メートルもある栗の木を、六本も使った大型掘立柱建築は、集落のシンボルタワーであったのであろう。
また土や土器、焼土を最高で4mも積み上げた盛り土の遺溝を、作成するのに
1000年はかかったのではないかと言われている。
当時メソポタミアでは巨大な神殿を造り、その神殿を造るために、木材運搬のための巨大な船舶も作っている。またエジプトでは、あの巨大なピラミッドの大事業である。どれほどの民の膏血が流れたか、無辜の民が命を無くしたか、そして森林伐採によって、あのころから砂漠化が始まったと言われる。
そしてそれを作らせたのは偉大なる王様の絶大なる権力であった。しかし日本にはその頃、王様も天皇もいなかった。まほろばの国であった。
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