新規投稿者 三木 伸哉
投稿日 08/6/12(木) 05:06:16
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日本で一番短い会話は「どさ」「ゆさ」だという。夕暮れて東北地方の雪深い道をすれ違う人たち、「どさ」(どこへいくの)「ゆさ」(お湯へいくの)
東北地方をバス旅行したとき、バスガイドが次のような言葉を教えてくれた。
「喋ねえって、喋られるより、喋って喋られるほうが良いって喋ってら」
(話をしない人だと言われるより、話をする人だと言われる方が良いと話していた)という意味らしい。バスガイドさんの言葉を、聞きながらメモしておいた。
東北の大飢饉は天災であったか。
日本史上、未曾有の餓死者を出したのは、天明の大飢饉だといわれている。
天明2年の暮れは冬でも暖かかった、年あけるとそれが一転して寒気が強くなり、5月の田植え時には「霖雨」―長雨と冷気―によって、重ね着をしなければならないほどであった。しかも雨が降り続き、初夏から9月まで霖雨が続いた。
稲穂には花咲かず、一粒も実らず、しかも浅間山の噴火によって、砂が降り注いだ。この小氷河期の気候は18世紀の中頃から、19世紀の中頃にかけての約1世紀の期間、世界的な規模で、小氷河期の時期に当たっていた。
この間、東北地方では、宝暦・天明・天保の三大飢饉が発生している。
中でも天明の大飢饉は被害が著しく、その惨状は目を覆いたくなるほどであった。弘前藩では8万人、盛岡藩では6万人、八戸藩では3万人の餓死者、弘前藩では人口の約7割が死んだ。また疫病の「熱病」(腸チブス)、時疫(インフルエンザ)「傷寒」(発疹チブス)蔓延が追い打ちをかけた。この病気が栄養失調の人たちに襲いかかったのであった。
高山彦九郎の記録には、「村里には1人の村人も見かけることはなく、ある空き家には、篠竹が縁を貫き、その間に人骨白々と乱れてありければ、目も当てられず」という記録も見られる。死者の多くは貧農と、他領からの流民がほとんどであったという。貧しい者達から犠牲になった。
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