日本の旅とその歴史の背景 33(最初の鹿児島)1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 09/2/4(水) 10:46:02  返信も含め全削除
日本の旅とその歴史の背景 33(最初の鹿児島)
生徒の就職の追跡調査の旅
鹿児島を訪問したのは、29歳の時であった。長男が生まれてまもなく、同僚の教師と23日間の全国旅行の機会が与えられた。昭和30年時代から始まったイトヘン景気、生糸全盛時代は終わりを告げ、石油から人口繊維を生み出す産業が、かつての紡績工場で華々しく登場した時代でもあった。
「15の春」は子供たちにとって、人生最初の分岐点である。網走管内の田舎の学校では、高校進学率がようやく40%位になった頃、30%位の生徒は、故郷を後にして、まだ見ぬ東京へ、大阪へ、繊維工場の林立していた岐阜、愛知など親元を離れていった。金の卵と言われていた時代であった。
 私のクラスには、新日本電気(NEC)に、9人もの男子が就職を希望して
東京へ行ってしまったこともあった。

もっと将来を見据えた進路指導を、と思いながらも、当時の高校進学率も低く、クラスの仲間が、大勢憧れの東京へ行くという思いもあったのであろう、こどもたちの結束した熱い思いは堅かった。粉雪の降る美幌の駅頭で、男の子達は東京へ向けて出発した。
 「15才は金の卵」などともてはやされて、所得倍増論の池田首相に期待していた時代である。「もはや戦後ではない」ともいわれた時代、中卒のこどもたちは、ベルトコンベアーの歯車の一つ、紡績織機の歯車の一つになって、青春時代を過ごした時代であった。

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