「日本の旅と歴史の背景」34の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 09/2/22(日) 06:14:41  返信も含め全削除
本当に「敬天愛人」であったのであろうか
私は11月ころ東京へ行くたびに、上野の森にある東京都美術館に「日展」を見に出かけた。いまは「日展」の会場も六本木に移転したけれど、上野の西郷さんを仰ぎ見たものであった。つんつるてんの寸詰まりの着物を身に纏い、膝小僧を丸だしにした西郷隆盛は、いかにも村夫然とした風貌、体型の彫刻である。
いかに著名な高村光雲の彫刻とはいえ、明治の巨人であるという印象はうすい。
おまけに上野の森に棲む鳩のフンで、可哀想に汚れに汚れていた。

西郷はよく「敬天愛人」と揮毫した。幕末から明治の初めにかけての政治のアンチテーゼとして書いたのではあるまいかと思う。
 「敬天愛人」と書かれた草書体の書の写真を見たけれど、見事な筆跡である。南州書と落款が押されてある。
しかし西郷は「天を敬い人を愛する」という言葉を、自らの信条として書いたものであろうか、という疑念も歴史書には書かれている。逆境にあった西郷が自らを「天を敬い人を愛せよ」と言い聞かせているのではないかと。
むしろ天を恨み人を憎むような境遇に落とされたのが、西郷の後半の人生であったことは確かである。
齊彬の死後、久光から疎まれ、沖縄の島々の沖永良部島や奄美に流刑されたり、征韓論の張本人にされたり、西南戦争で非業な最期を遂げるなど、敬天愛人の人生ではなかったように思われる。

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