旅順からの「坂の上の雲」26
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/1/7(金) 07:32:41  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」26
日露戦争に勝ったが、その後の大誤算 2
ロシアの交渉団の団長、ウイッテは強固であった。ロシアはいま続々と後援部隊を召集している。「なんなら戦争を続けてもいいのだぞ」と息巻く。
事実日本の軍隊を圧倒するような軍備を拡張していた。
もしあと1年日本が戦争を続けていたら、日本経済はパンクしていたであろう。国民は耐乏生活にたえながら、やっと勝利を掴んだと歓喜に沸き返っている。当時の新聞報道もあおりたてる。

最低でも樺太の割譲、カムチャッカ、沿海州全部の割譲、賠償金30億円(いまの時代の日本の国家予算に相当するようである)、あれだけ多くの国民が犠牲になったのだ。最低でもこれくらいはとってこなければダメダ、の新聞論調にすっかり国民は多額の賠償を期待していた。
しかしロシアのウッティの態度は硬化していて、打開の余地はなかった、「戦争続けるか」をちらつかせながら、ロシアに有利のように運ばれていった。

小村寿太郎も談判の打ち切りを決意して、日本に電報を打つ。
「領土の割譲と賠償金の要求を放棄する」と日本政府に報告した。
その後ロシアは何を考えたのか樺太の半分(北緯50度以南)を割譲してもよいと連絡してきた。結局小村寿太郎の粘り腰で
○        韓国における日本の優位性(植民地化) ○樺太の南半分の割譲
○        満州からのロシア軍の撤退   ○大連・旅順の租借権
○        長春から旅順までの東清鉄道(南満州鉄道)の譲渡を取り付けた。
小村にしてみれば政府が期待していた以上のものを獲得できたことになる。

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/1/7(金) 07:33:38  削除
小村帰国へ騒然たる国内事情、
「小村が帰国するときは断じてむかえるなかれ」「迎えるときは弔旗をもってせよ」「嗚呼、千古の屈辱」という見出しが新聞紙上に踊った。
報知新聞などは懸賞金を出して、屈辱講和をテーマにした風刺画、ポンチ絵、などのテーマにした募集をだした。桂太郎首相の二号を自宅に入れる入れないと、大騒ぎをしている新聞、雑誌のマンガなどを見ることができた。

まだ明治時代の末期の頃はこのような言論の自由が保障されていた時代もあったのかと、不思議に感ずることもある。幸徳秋水の大逆事件などは新聞で報じられているが、新聞論調もしだいに国家主義的な様相を帯びてきた。
足尾銅山の田中正造のことも、自由民権運動のこともきちんと新聞は報道されている。それがまったく変わってしまい、ウソ八百を報道するようになったのは、太平洋戦争以降であろう。明治の頃の新聞論調はまだ、新聞の使命というものを堅持していたと思われる。

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