旅順からの「坂の上の雲」27
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/1/11(火) 10:12:56  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」27
帝都大騒擾の二日間、日比谷公園一触即発 (当時の新聞の見出し)
日比谷公園は何度も訪れた。野良猫が物欲しそうにしているので、家内と餌を購入して食べさせたこともある。長閑で閑静な都の一等地、レジャーランドもなく、散策するには良い場所である。この日比谷公園が開園したのは1903年、日本の最初の都市公園として作られたと言われている。
それ以前は近衛師団の練兵場であった。

1905年(明治38年)9月5日は朝から快晴であった。9月1日ごろから燻っていた不穏な動きが一気に火を噴くことになる。講和問題同志会の中心人物であった、小川平吉が中心になり、国民大会の打ち合わせをしていた。もちろんこのような日露戦争の講和にたいして、親兄弟を失った家族の悲しみはもとより、手足を亡くして帰還した兵隊、(当時廃兵といわれた)我慢できない講和の条件に対しての政府への怒りの爆発である。

 小川は同志と共に日比谷公園の近くに来ると、5人の刑事に呼び止められた。「警視庁に来てもらいたい」と、腕を捕まえられた。
 そのとき、「この国賊(刑事達)を葬れ」と叫ぶと、殺気だった群衆が一斉に火を噴いた。刑事達に殴りかかったのである。刑事達はまたたく間に袋だたきにあった。この日1時からの開催であったが、もうすでに10時頃から群衆が集まり、決起集会に備えていたのである。


返信 1 三木伸哉  投稿日 11/1/11(火) 10:13:42  削除
公園内に入りきれない群衆には、険悪な雰囲気がただよい、市街電車から降りた群衆は3万人にも膨れあがっていた。
講和批准の反対集会が開かれた。自由民権運動の壮士、河野が壇上に立った。河野が壇上に立つと水を打ったように静かになった。目には涙を浮かべ、胸まで長くのばした髭を揺さぶらせつつ熱弁をふるった。
「吾人は、挙国一致必ずや屈辱的批准を破棄せんことを期す」としめくくり君が代斉唱、大聴衆は熱狂して、脱帽し、「天皇陛下バンザイ、日本陸海軍バンザイを唱えたという。明治の末期の世相がわかる。

その後、群衆達は国民新聞社に向かいだした。このような批准をした桂内閣のご用新聞と言われていた「国民新聞社」である。徳富蘇峰率いる新聞社であった。群衆は社屋によじ登り、看板をはずし路上に突き落とした。そのような騒擾の様子を察知した騎馬巡査が、砂煙をたてて現場に駆けつけてきた。それをみた群衆が馬に石を投げるなどのかつてない行為で官憲に対抗した。
このあとも宮城に向かう群衆など、東京全域におよんだ争乱は、ついに軍隊の出動にもおよび、電車は火の車になったり、約2000人が検挙されるに到った。東京ははじめて戒厳令下に敷かれた。

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