旅順からの「坂の上の雲」30
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/2/10(木) 17:49:56  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」30
司馬遼太郎の描きたかったことは何か
NHKの「坂の上の雲」の第一部、五回分が終了した頃、朝日新聞の投書欄に次のような記事が載っていた。投稿者は東京都に住む84才の方であった。

「NHKが「坂の上の雲」を、どう映像化するか、関心を持って見ています。
100年前の1910年に日清、日露戦争の帰結として、韓国併合があり、日露戦争に反戦論を唱えた人たちが、大逆事件で計画に関わった人たちと共に翌年、処刑されました。「地図の上くろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と歌った石川啄木、幸徳秋水らの助命を訴えた徳富蘆花、「雨の降る品川駅」で、朝鮮人との連帯を歌った中野重治、そして、あの侮蔑の時代に異国の留学生・周樹人
(魯迅)に温かい手をさしのべた「藤野先生」、これらの人たちがいたことで、私の心は慰められ、明日に向かって生きる力をもらったような気がします。
 弱肉強食の帝国主義時代を迎え、英露独仏米の巨大な潮流の内で、小国日本外交は、福沢諭吉の言う「脱亜」の道しか選ぶことしか出来なかったのか、そして今日の韓国、中国の人たちが、この作品をどのように受け取るか、心にかかります」と書かれてあった投書欄を切り抜きしておいた。

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/2/10(木) 17:51:06  削除
司馬遼太郎はなぜ書き始めたのか
産経新聞に連載を開始したのは1968年、(昭和43年)であった。1972年に筆を擱いている。もう40年近くの前のことであり、昭和43年の時代はまだ反体制の勢力が強く、こんな時代に日露戦争を書くと言うことは、かなりの勇気のいる時代背景であった。左翼テロに狙われるのではないかと噂される時代であった。
構想を練り始めたのは連載発表の5年前、当時古本屋の棚からごっそりトラックで運ばれて行った時代だと言われている。
1960年は安保の年、樺美智子さんがデモ隊の中で命を落としたラジオ放送のアナウンスがまだ耳朶に残っているように感じる。

安保改定の推進者の岸信介のお孫さん、阿部晋三坊ちゃんは信介爺ちゃんのあぐらのなかにちょこんと座り、「アンポハンタイ」と叫んでは、信介爺ちゃんがニコニコ眺めていた写真も見たことがある。
そのような時代の民族的な情念の噴出がこの日本を覆い始めた。それは日露
戦争後の日比谷公園の焼き討ち事件に相似している。
 そんな時代の日本の国全体が「アンポハンタイ」に収斂されていく時代に、司馬遼太郎は大変な違和感を感じ、不安感、不快感をもったことは、確かなようです。
明治38年に感じた民族的な情念を、彼はこの昭和40年代にも感じたに違いない。何とかしなければと言う思いが、この作品の原点ではなかろうか。

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