新規投稿者 三木伸哉
投稿日 11/2/25(金) 10:02:45
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旅順からの「坂の上の雲」32
司馬遼太郎は、家永三郎への反発が無かっただろうか 2
司馬遼太郎は、家永の教科書の中に日露戦争がどのくらい描かれておりどう評価しているかを調べたそうである。
ところが日露戦争については、僅かに8行だけの記述であったという。
この「坂の上の雲」を書いた当時は、家永三郎史観がまだ生きていた時代であって、それへの抵抗も根強かったと言われている。
なぜ抵抗感が強かったのか、端的に言うと、あれほど日本の将来を位置づけた日露戦争が、たったの8行しか書かれていない。 ということから始まり、戦後の日本の国民に覆っている国を思う気持ちのなさ、健全なナショナリズムが育っていないのは、教育、とりわけ歴史の教育にあるのではないかと考えたのではないだろうか。だから家永教科書には反対であったという。
戦後の経済発展の上昇気流に乗っているこの時に、この作品を発表することにより60年代以降日本の国を覆っている空気を払いのけたかったのであろう。学生や勤労者の多くが安保闘争に足を踏み入れ、国全体が左に傾いていくと感じたとき、彼の脳裏に燦然とひらめいたのは、明治の日清日露の戦いであった。
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