回想中国 4 劉先生の来訪の1
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/3/19(土) 10:34:15  返信も含め全削除
回想中国 4 劉先生の来訪
学生との対面し、授業が開始されて1週間ほど経ったときであった。
外事処から次のような連絡があった。「もと大連のロシア語と日本語の教師で、いま70才になる中国人が、ぜひ日本人の教師の三木先生に会い、歓談したい。と言っています。いかがしましょうか、」というのである。
一人中国へやってきて、誰一人近くに日本人もいない、学生以外、日本語を話す人もいない環境であるから、二つ返事で承諾した。
 翌日手みやげを持参して、私の宿舎の専家楼へやってきた。楼という文字が何とも日本人には憂愁を湛える文字に見える。五番街夕霧楼を彷彿とさせるような。
私の専家楼にやってきた劉先生の闊達な言動には感心した。
日本語が実に達者である。もちろん日本語の教師であったから流ちょうに話す事ができるのであろうが、普段の生活でしばらく日本語から離れていたというのに、舌を巻くほどの日本語である。
 「お一人で中国へ来てなにかとご不便でしょう、どうして奥さんを連れてこなかったのですか。」
「家内は中国へ来たいと言っていません。この中国へやってきて、毎日、新聞もテレビを見てもわからない生活、退屈でどうにもならないでしょう。それに今回の派遣教師で、夫婦同伴は一割くらい、四組ほどしかいません」

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/3/19(土) 10:35:07  削除
「いやー三木先生はまだ若い。まだまだ男盛りです。もしも中国の女性と問題を起こしたら大変です」と心配しているのである。
ああ63才の小生を男盛りと言ってくれるのである。もうとうに賞味期限が過ぎたと思っている男に、なんという勇気凛々の賛辞であろうか。

来訪の目的は何であったろう
しばらく劉先生の来歴を拝聴した。日本語の教師とロシア語の教師を兼ねていたというから、まさに3ケ国語を操れる。
古稀を迎えたというけれど、肌色といい弁舌のさわやかさといい、好奇心そして後日わかったけれど、ベンチャー精神の旺盛なこと、これは日本人には想像もつかない国民性であろう。
 終戦までは日本語の教師として大学の教壇に立たれていた。
しかし日本の敗戦と同時に、日本語を話すことも教えることもご法度になった。それでも彼はひそかに日本語を忘れまい、いつか必ず役立てることができると思い、日本語の学習を続けていたから、このような流暢な日本語がよどみなく出てくる。
 
まだ初対面で1時間もたっていないのに、夫婦円満の秘訣を伝授したいという。
「あのーそれは何のことでしょう」と、とぼけた応答をした。
「夫婦円満の極意は、これらの中国原産の山野に自生する薬草、スッポン、マムシなどの強壮剤を調合し薬品として売り出すことを考えています」とポケットから紙切れを取り出した。
「いずれ三木先生と、この開発のことも相談したい。パソコンで書いてもらいたい文章も、その時はお願いします」と10年来の知己のように語り始めた。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.