回想中国28 大連の草創期といま
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/7/4(月) 07:27:45  返信も含め全削除
回想中国28 大連の草創期といま
中国人なら誰でも住んでみたい憧れの大連はかつて
遼東半島にかつて名もない港があった。その寒村は外国の軍靴に踏みにじられ、人々はいやおうなく巻き込まれてその姿を変えていった。一番その姿を変えたのはロシアであろう。ニコライ二世時代のロシアが、ロシア風の建築で街並みを一新した。この地をダーリニーと名付けた。そしてその当時の面影を今に伝えている。
21世紀に入りさらにロシア人街という豪壮な建築が立ち並んだ。大連駅に近いから観光客の観光スポットそして人気を集めている。

この地の港町の大連港は上海に次いで上海、天津などへの航路をもつ中国第2港として発展を遂げた。
日本からかつて満州の地への上陸の港として定期航路の港であった。

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/7/4(月) 07:28:30  削除
満蒙開拓団(満州と蒙古を目指した開拓団)
「狭い日本に住みあきた。君が行くなら僕も行く、4億の民の笑顔が待っている、広い沃野で思う存分鍬をふるえる、」
そんな甘い言葉に乗せられて、貧しい農民の2,3男をはじめ、日本に見切りをつけた第一次派遣団は、希望を膨らませて満州の大地にわたった。目が丸くなった。こんな美しい街が世の中にあったのか、故郷を離れてきて本当に良かった。大連港の埠頭に立った時は、誰しもそう思った。

しかし、やせた土地、真冬には零下30度にもなる酷寒の土地、匪賊の出没、軍閥の跋扈。ゾクゾクするような恐怖感に襲われながら、日本政府の植民地主義の片棒を担がされた。あの時本当のことは誰も教えてくれなかった。マスコミはすべて戦争協力者であった。
満鉄は中国各地の鉄道網を広げ、満州の奥へ奥へと農業移民団を送り込んだ。満州里というロシアに近いところまでも200人住んだ。
当初200万人移住計画が立てられたが、第一次の派遣隊からその実態が知れ渡るようになって、開拓団も尻つぼみになった。
ハルピン周辺だけでも100以上の開拓団があった。精鋭を誇った関東軍は南方に動員されて、この開拓団の男たちも根こそぎ動員された。

あとは山崎豊子原作の名作「大地の子」の冒頭に出てくる長野開拓団、岐阜開拓団の流浪の逃避行であった。8月9日のソ連軍の突然の襲撃であった。平和条約など何の効力もなかった。
当時満州にいた開拓農民は27万人と言われ、そのうち大連の港に着いたのはわずかに6万人といわれる。どんな思いでようやく大連港に到着したか、集団自決もあり、赤子の泣き声を消すために「川に沈めろ」と言われて赤ん坊をそのように処理したこともあった。天蓋のない列車で、臨時停車のとき畑の野菜を盗んでは食いつないで生きてきた私の友人など数えきれない。

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