(台湾の今昔) 11
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/10/9(日) 16:38:18  返信も含め全削除
男4人の台湾訪問(台湾の今昔) 11
日本51年の統治下で、日本は100年後の国づくりを考えた
満州の国づくり、朝鮮の植民地、台湾の統治の仕方はさまざまであった。台湾の場合は国家100年後の国づくりを考えてスタートしたと言われて。51年間の統治の内容を描くことは至難の業になるので、特徴的な施策、台湾人がどうしていまだに日本を大好きなのか、探ってみたい。日清戦争で勝利して、清国から台湾を割譲された。支配する別の人間が大勢やってくるのであるから、当然それに従わない民族も多数あった。高砂族は7つほどの部族間に分かれていて、抗争は絶え間なかった。やがて広州や福建省の漢族や客家人(ハッカー)がやってきて先住民族との結婚による血の混じりあいがあり、大陸の少数民族との紛争絶え間ない時代は、もう昔のものになってしまった。これが大陸の45の少数民族、とりわけ新疆ウイグル、チベット、内モンゴルの少数民族と漢族の反目が長らく続き、おそらく収束しない泥沼になっていくと思われる事情とはかけ離れている。

日本統治下の施策の主なもの、
最初のうちは新たにやってきた日本人と台湾人との抗争は長く続いた。植民地にした場合、ジェノサイドのような大量虐殺でもしない限り、平定しない植民地化の歴史がある。しかしそのような支配はできるだけ避けた。最も顕著な業績だけを拾ってみたい。

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/10/9(日) 16:39:12  削除
1、        縦貫鉄道と道路の建設
清朝時代、化外の地となっていたこの台湾を、南北に404キロメートルの鉄道の建設道路建設を行った。南国に特有の風土病(マラリアなど)や慣れない暑さに、バタバタと死亡者が出たが、第4代の児玉源太郎と後藤新平の両腕がインフラ建設のピッチを速めた。
また「日月譚」の水力発電所の建設、台湾電力株式会社の建設に多大の功績のあった第7代の総督、明石が急死するまで、この事業を継続し、やがて後継者が立派に継続して完成した。この明石総督の銅像が建てられ、いまでも「救国の人」として敬愛されている。
このことは添乗員の方からも教わった。

2、教育施設の完備と日本語の教育
日本の国にするという植民地教育がなされた。徹底した日本語教育、3つくらいの中国語、広東語、客人語などがあったが、すべて日本語に統一された。台湾人と日本人が同じ教室で学びあい、明治38年にはわずか2%であった児童数が、終戦寸前には92.5%に膨れ上がった。児童は、国の宝、将来の日本のために、厳しく優しく教えようという教育方針のもとに指導された。日本の国民学校と、変わらない内容であるから、修身の時間には日本の偉人伝の話が忘れがたいという人もいる。
「二宮金次郎、楠正成、本居宣長、吉田松陰、野口英世、外国人ではソクラテス、ワシントン、リンカーン、ナイチンゲールなど」の名前を今でも覚えていると語る女性がいる。
ところが終戦になって日本の学校どう変わったのか、蒋介石が引き連れてきた国民党の兵士とその家族、そして福建省からもかなりの人たちを台湾に移住させた。

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