男4人の台湾訪問(台湾の今昔) 13
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 11/12/19(月) 10:54:54  返信も含め全削除
男4人の台湾訪問(台湾の今昔) 13
外省人(蒋介石の軍隊と家族)の蛮行の限りが始まった
台湾上陸の中国兵の姿を見て、台湾人は一様にどよめきの声がわき上がったという。日本からの新聞雑誌に描かれているとおりの風体であった。
大陸を追われて、敗残兵となって逃れてきた台湾の地、刺すような台湾人の眼差しを受けた蒋介石軍は、銃剣を振りかざして、台湾人に絶対服従を迫ったといわれている。
日本の統治下にあって51年、さまざまな日本の支配下でも、人間らしく生きる希望をもっていたのに、目の前に現れたのは、この世の幻滅を感じさせる風景であった。

蒋介石は1887年生まれであり、1975年に没した。彼の青年期の頃は、日露戦争後の「日本は、大国ロシアを打ち破った。日本に学べ」という風潮が広がった。
若いとき、やはり日本に留学して、高田連隊で学び、当時の頃の人生が一番充実していたと述懐している。留学中、孫文に会い彼の唱える「三民主義」に傾倒し、共産主義にすっかり共鳴したのであった。国民党においても頭角を現すようになり、孫文を助ける立場になった。

しかし孫文が急死して、国民党のリーダーになったときから、蒋介石は共産党と手を切り対立した。アンチコミュニズムの姿勢が、国内の内線(毛沢東率いる共産党と蒋介石の国民党が泥沼の国内戦を続けたのであった)このような事実はある程度の年齢になった日本人なら誰でもご承知のことである。蒋介石は満州の軍閥、張作霖の息子の張学良によって一時西安に幽閉された。有名な西安事件であった。
 

返信 1 三木伸哉  投稿日 11/12/19(月) 10:55:37  削除
瀋陽の町に張学良の記念館があり、大連時代にその記念館を訪問した。ひとことで言えば日本の侵略の爪痕の陳列に過ぎないが、大勢の中国人の中に入り、わずか2,3人の日本人だけの反日記念館見学というのは、心穏やかではない。いつ背後からげんこつが降ってきはしまいか「日本人の方ですか」と声をかけられはしまいか、ハラハラドキドキの心境である。
この西安事件の時も、国府軍と共産軍の共通の敵は日本である。こんな時に両軍が国を分けて戦っている時ではない、共通の敵は日本なのだ。という合意が成立した。

しかし蒋介石はアメリカの支援のもとに日本軍とたたかったが連戦連敗、太平洋戦争の終了後、国際条約もないまま、国民党を引き連れて台湾に渡ってきたのであった。
その時の国民党の関係者と将兵は150万人とも200万ともいわれている。アメリカの支援は途絶えた。アメリカが蒋介石を見限ったのである。
台湾に渡った蒋介石は「大陸反攻」を目指すが、結局その夢はかなわなかった。1975年台湾に亡くなるまで、一時期をのぞいて相当の位置にあり、二五年間の台湾統治が続いたのである。
二五年間の治世はまさに本省人(台湾人)にとって、どれほど辛い日々であったか。はじめから日本の教育を受けたエリートを抹殺する予定で台湾に来たのであったから

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