新規投稿者 三木伸哉
投稿日 11/12/29(木) 09:46:40
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男4人の台湾訪問(台湾の今昔) 17
終戦当時、台湾にいた日本人は、約48万8000人、そのうち16万6000人が軍人であった。およそ20万人の日本人はそのまま台湾にとどまることを希望したが、国民党はそれを許さず、教師や技術者の一部を除いて、全員が日本本土へ引き上げることになった。
引き上げの際、携行を許されたのは、帰路の食糧、リックサック二つ分の生活用品であったという。そして現金は1000円だけであった。
どんな思いで引き揚げてきたであろう。51年間の台湾暮らしに人たちもほとんど着の身着のままであった。中国でも同じような立場に置かれた人たちがいる。
中国の場合は、開拓農民が自決したり、残留孤児になっていまだに中国人となって生活している「大地の子」もいる。
また一方では、中国共産党が日本人の優秀な技術力を利用するために、中国鉄道の建設などの労役に就かせた。聞きなれない言葉であるが、これを「留用」という。とどめ置いて用いられた。その後毛沢東はこれらの日本技術者の恩顧に報いるために、帰国時には「褒章」を与えたといわれている。その実数は明らかではないが、看護婦も医療従事者もいたといわれている。
日本人が51年間築き上げた財産(私有の金品はもちろん、公共財産)はすべて国民党のものとなった。現在の日本円で5兆円以上と言われている。
日本人の残してきたものそれは何よりも膨大なインフラ施設であり、台湾帝国大学をはじめとする教育施設、教育制度、日本文化の精粋であったであろう。北回帰線を台湾のど真ん中に位置する。九州よりやや狭い国土には、日本時代の農業も受け継がれている。耕して天に上るような段々畑、そして日本の科学技術教育の成果が、この台湾に花を咲かせ、台湾の経済発展の礎になっている。
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