ふたたび「人間の条件」を見て 4
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 12/1/23(月) 05:33:46  返信も含め全削除
ふたたび「人間の条件」を見て 4
五味川純平の生い立ちと作品の傾向
私は札幌市の市民会館で彼の講演を聞いたことがあった。メリハリの利いた弁舌、説得力のあるその論理に圧倒される思いであった。何よりも満州での体験、ソ連軍と戦って生き残った4名の敗残兵の一人という、その戦争体験と軍隊生活の境遇の話が胸を打ったことを覚えている。
 
彼は1910年(大正5年)大連生まれの満州育ち、家業は陸軍のご用達の物資を取り扱うものであった。彼は大連の中学に入り東京に引き上げてくるまで、日本の内地というものを知らなかった。
シベリア撤兵後、家は没落、その後引き上げてきて、東京商科大(現一橋大学)に入学するも1年で退学し、東京外国語大学の英文科に再入学した。
 卒業後、満州の鞍山の昭和製鉱所に入社した。1943年に召集を受けて満州東部の戦線を転々としたことになる。まさに彼が体験した軍隊生活をこの作品の中で、赤裸々に描いた内容となっている。


返信 1 三木伸哉  投稿日 12/1/23(月) 05:34:22  削除
彼の作品の「ノモンハン」「ガダルカナル」でも「神話の崩壊」でも描かれているのは、日本の軍隊の虚構、関東軍の神話(負けるはずがない関東軍)が敗戦とともに、脆くも崩れ去ったことを、その関東軍の欺瞞性を描き続けている。

彼が回想的に、幼児の頃の思い出を描いている部分があった。生家は大連湾に面した小さな漁村であった。そこには日清戦争時代の要塞があり、李鴻章桟橋という桟橋があり、沖に80メートルくらい突き出ていた。兵士や貨物の陸揚げに使われた桟橋であったという。
私も大連に住んでいたので、あの大連港にも何回か出かけてみたが、その史実を知らなかったので気にも留めなかった。おそらくいまだに残っているのであろう。

中国は歴史的建造物を大事にするお国柄、100年前の建築はいまだに残っている。大和ホテルなどは中国に7つ建築されたが、大連の大和ホテルは一番豪壮であろう。さすがにその当時の大和ホテルという呼称は使われていない。「大連賓館」と呼ばれ★4つか5つであろう。そのホテルの中のカラオケバーで、日本人の友人たちと歌ってきたものであった。
ロシア人の末裔と思われる美貌のチイママがいろいろ接待してくれた。

なにしろロシア人街がある大連であり、日本人街もあったが忌まわしい記憶があったのか、日本人街という呼称はなくなった。
五味川が住んでいたその寒村に、関東軍の旅団司令部と一個連隊くらいの兵士が駐屯していた。ときどき匪賊が現れて少年たちを困らせたとも書かれている。

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